2016年6月1日 1-6

F1復帰を目指したホンダとF2で残してしまった功罪

空冷エンジンの失敗やオイルショックにより経営が傾いてしまったホンダは、シビックという孝行息子によって救われます。
1980年代となると、そんなショックから日本経済も立ち直りはじめ、ホンダもワークスとしての活動を盛り返していくことになるのです。
その中の一つがF2へのエンジン供給であり、これがホンダが最も輝いていたといわれるF1の活動へとつながっていきます。

重要な意味を持っていたF2

のちにF3000となるF2は、F1の下のカテゴリとして始まりました。
F1へのステップアップとして、ドライバーの育成も考えられ運営されていたところが特徴です。
現在でも、フォーミュラということを考えれば、こうしたステップアップができるような形が必要でしょう。
ところが、F1の下のカテゴリが存在しないことで、有能なドライバーが生まれないといわれています。
この問題の背景にあるのが、このF2の存在でもあったのです。

ホンダの残した功罪

F1ドライバーの育成という意味があったF2でしたが、結果としてF3から直接F1に上がって行くドライバーが増えました。
レギュレーションの問題などがありましたが、ホンダが供給した高性能なエンジンの問題もF2の衰退に拍車をかけたのです。

ホンダは1980年にF2にエンジン供給を再開します。
将来のF1参入も考えた措置であり、ごく少数のドライバーに対してのみ供給しました。
ところが、高性能なエンジンは、あまりに極端であり、ホンダのエンジンだけが勝ってしまうというありがたくも迷惑な状況を生むのです。
その結果、F2を支えてきたBMWがエンジンサプライヤーとして撤退、1984年にはF2ははいしされ、F3000へと変わって行くことになます。

悲しいことに、F2でチャンピオンになったドライバーの中で、F1チャンピオンは一人も生まれませんでした。
こうした部分も、ホンダの功罪であるといわれています。

ホンダがF1で最も輝いていた時代へ

ホンダはF2での実績を掲げ、ルノーが猛威を振るっているF1に関バックを果たします。
1983年にエンジンサプライヤーとして復帰し、ウイリアムズともタッグを組めるようになって行くのです。
ターボエンジンの登場ということが大きなポイントでしたが、ホンダは驚くほどの成績を見せ、第2期といわれる最も輝いている時代へと突入します。

数多くのスタードライバーが生まれてくる時代であり、日本のレースということを大きく引っ張る存在となって行くのです。
ですが、その反面で日本のレースにはほとんど参戦しない時代で、JTCCでのシビックの活躍程度になって行くことも、この時代のホンダの特徴ともなって行きます。
販売戦略的に成功したかといえば、国内よりも国外へ目を向けていたともいえるでしょう。