2016年5月29日 1-5

技術ばかりが先行したホンダとオイルショックの時に生まれた孝行息子のシビック

1970年代となり、日本はオイルショックに見舞われることになります。
ホンダもモータースポーツを推進しているどころではなくなり、F1だけではなく2輪も撤退することとなるのです。
そんな中、のちに市販車モータースポーツに使われることになる名車シビックが生まれます。

世界戦略を担うシビック

ホンダには、いくつか世界戦略を担っている車種が存在しますが、その中でも最も長く名前を続けているのがシビックです。
日本でも人気がありましたが、いったん名前は消滅し、北米用の車両となりました。
しかし、その人気は高く、再販売が決まっています。
それだけ、ホンダにとっても特殊な意味を持つ車であるといえるでしょう。

ホンダ1300の失敗

シビックが生まれたのは、1972年のことでした。
小型の車を作ることを得意としていたホンダは、バイクやレースなどで得た技術をフィードバックし作り上げることになるのです。

小型にこだわっていたのは、ホンダ1300の失敗があったといえるでしょう。
とにかく空冷エンジンにこだわっていた本田宗一郎は、小型車にも投入しようと考え1969年にホンダ1300を発表します。
F1で失敗したこともあり、かなり不安視されていたものの、だれも本田宗一郎を止めることができなかったのです。

確かに素晴らしい性能を発揮しますが、ホンダ1300のレース仕様車を使って1969年の鈴鹿12時間に出場したときに問題を発生します。
レース開始から11時間後、スピンから後続車を巻き込む事故に発展し、ドライバーであった松永喬がなくなってしまうのです。
F1でもドライバーをなくした直後であり、これが空冷エンジンの評判を叩き落すことになり、ホンダ1300も失敗作となってしまうことになります。
もともと、エンジンが複雑な構造で重いという、ホンダが抱え続けることになる重量の問題があり、サスペンションのバランスがとりにくく、ピーキーな車でした。
とにかく挙動が安定せず、これによりホンダの4輪事業自体が不安視されることにもなるのです。

ホンダの孝行息子

ホンダを救うことになるシビックは、小さいボディにコンパクトなエンジンながら、高い出力を持っていました。
ホンダマチックと呼ばれるAT仕様も人気となり、4ドアセダンなども追加して行くことになるのです。
こんな小さな車なのにもかかわらず、クラウンなどから乗り換えるという人も出て、ホンダの経営自体も盛り返していきます。

オイルショックの真っただ中、スポーツモデルまで発表するのですから、いかに売れたのかがわかるでしょう。
ホンダの孝行息子として、長く愛されることになるシビックは、こうして生まれてきたのです。